きろく

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初恋のひと

実家に帰ってきた。

大学を卒業し、新卒で就職した会社は、パワハラやセクハラが当たり前のいわゆるブラック企業だった。

まんまと上司のハラスメントのターゲットになった私は、どんどんと身も心も削られ、

2年勤めている間にすっかりまとまった睡眠をとれなくなっていた。

退社を決意した頃には、入社したときから10kgも体重が落ちていた。

ようやく会社をやめたものの、すぐに転職活動などする気も起きず、

「とりあえず、帰ってきたら?」という電話での親の一言に甘えて、

新幹線に数時間揺られ、田舎の実家に帰ってきたのだった。

 

 

すっかりやつれた私を、両親はやさしく迎えてくれた。

上京してすさんだ一人暮らしをしていたので、決まった時間に一汁三菜のご飯が出てくるというだけでも、

ありがたくてたまらなかった。

 

しかし、両親へありがたみは感じるが、私はふるさとにはなんの思い入れもない。

どちらかというと、なんでもある東京の方がずっと刺激的で、代わり映えのしないこの田舎は退屈だった。

近くには、スーパー、ドラッグストア、コンビニのような必要最低限のお店と

10分くらい車を飛ばせば、つまらないチェーン店ばかりが入ったショッピングモールがあるぐらい。

1週間もいれば、すっかりこのぬるま湯の実家生活にも飽きてしまった。

 

 

ある日、暇を持て余しているので、久しぶりの車の運転の練習も兼ねて

「つまらない」ショッピングモールにでも行ってみるかと思いついた。

 

ショッピングモールの中は、予想通り、特に珍しいものなんて何もなかった。

車で移動してみても、改めてこの田舎にはなんにもないんだな、ということを再認識しただけだった。

 

モールの中で、ベビーカーを横に止めて、小学生ぐらいの子供にアイスクリームを食べさせている母親を見かけた。

一瞬だし、子供連れなんてたくさんいるのに、私にはすぐそれが誰かわかった。

中学の同級生のB子だった。

中学生の頃、私はいじめに遭っていた。

内容は暴言だけでなく、教科書を破られたり、財布や制服や下着を盗まれたり、動物の死骸を机に入れられたり。

その主犯格がこいつだった。

そういえば、中学の頃から私って、いじめられてたんだな。

B子の姿がハラスメント上司と重なり、口の中がじわりと苦くなった。

B子と目があったような気がして、あわてて目をそらしてその場を立ち去った。

中学生の時のいじめのことなんて、しばらく思い出すことなんてなかったのに、

B子の顔を見たらその時の光景が、気持ちが、ありありと浮かんできた。

なんであいつが子供二人もいて、幸せそうにニコニコ暮らしているんだろう。

なんで私は、相変わらずいじめられっぱなしなんだろう。

いや、あいつなんかずっとこんなつまらない田舎に一生閉じ込められて死んでいくだけなんだ、

こんなに若くして子供が二人もいるなんて、選択肢がなくて可哀想、私とは違う…

悔しさがどんどん滲み出てきて、とにかく早くここを出たい、と思った。

駐車場に向かう足取りが早足になる。こんなところわざわざ来なきゃよかった。

 

駐車場について、車を探す。こんなにつまらないところなのに、駐車場はほぼ満車だ。

どこに停めたっけ、とひとりごとを言いながら歩いていると、

「Aちゃん」

突然、私の名前を呼ぶ声がした。

声の方を見ると、男性がいた。誰かわからない。なぜ私の名前を知っているのか。

ぽかんとしていると、「Aちゃん」とさらに大きな声で、また彼は私の名前を繰り返して駆け寄ってきた。

「…はい?」

気づけば、数週間、両親以外とは会話していなかった。どのような態度をとっていいのかわからず、しばらく無言になってしまったもののようやく出た言葉だった。

「Cだよ、中学の同級生の」

彼はニチャアと粘着質な笑みを浮かべる。

そういえば、Cっていたような気がするが、ほぼ記憶にない。

いじめられてもいないけど、いるかいないかわからないような男子。そんなポジションのやつだったような。

「あ、ああー、Cくんか」

なんとなく気まずくて、覚えてるよ、みたいな声のトーンで返すけれど、私が彼のことを覚えていないのは明らかだろう。

それにB子を見かけたばかりで、中学のことはもうこれ以上思い出したくないと思っていたところだったのに。

かまわず、Cはまっすぐに私を見つめて話を続ける。

「Aちゃん上京したって聞いていたけど帰ってきたんだねびっくりだよ」

私が返事をしていなくてもベラベラとCは話し続ける。

まばたきもせず、ずっと私を見ている。こいつこんなに話すやつだったっけ。

それになんで私が上京したこと知ってるんだろう。

「Aちゃんあまり変わっていなくて安心したよ中学の時より少し痩せたかな?」

だいたい中学の同級生で私を「Aちゃん」なんて下の名前+ちゃんづけで呼ぶようなやつなんていなかった。

なんだか居心地の悪さだけでなく、このCに対して気持ち悪さも感じてきた。

「Aちゃん中学の時はいじめられててほんとにかわいそうだったよね机にネズミ入れられたり」

無神経なことを言われているが、そんなことも耳に入らず、とにかく帰りたいの一心であった。

Cがマシンガンのように話している間に、目の端で自分が停めた車も見つけることができた。

これは早く切り上げよう。帰って、ゆっくりお風呂でも入ろう。

「…そろそろ帰らないと、ごめんね」

「Aちゃんに会えるなんてうれしいなあ」

独り言のようにCはつぶやいた。

こいつは話を聞いているのだろうか。

ただでさえB子を見かけてからずっと苛々していたので、黙って会釈すると

そそくさと踵を返して自分の車の方へ走った。

その時、

「Aちゃんは俺の初恋の人なんだよお」

突然、Cが私の背中にむけて大声をあげた。

ドラマなら感動するようなセリフなのかもしれないが、私にとってはほぼ赤の他人である。

文字通り、背中が凍りつくかのように二の腕まで鳥肌が立つのを感じた。

背中にCの視線を感じてはいたが、そのまま振り向かずに車に乗って

たまにミラーも確認しながら、急いで家に帰った。ハンドルを持つ手が、少し震えていた。

Cの車は尾けてきていないようだった。

 

 

ほんの少し遠出しただけで、これだけの嫌な思いをするということを思い知った私は、

そのあとは、とにかく実家に引きこもっていた。

数日もすれば、蘇ってきた中学時代の嫌な思い出も忘れて過ごすことができた。

毎日携帯でマンガを読み、ゲームをし、親のご飯を食べて、お菓子も食べて過ごし、眠くなったら眠る。

自分をとことん甘やかす生活を送っているうちに、不眠は改善されていた。

 

 

 

そんなある日、いつものようにソファに寝転がり、携帯でマンガを読んでいたところ

 

ピンポーン

 

インターフォンが鳴った。

母親は2階で何かしているようで、すぐに降りてきそうにない。代わりに出ることにした。

「宅配便でーす」

玄関のドアをを開けると段ボールを持った●●急便の男性が立っていた。

段ボールを受け取り、サインをしようと男性からペンを借りて伝票に名前を書こうとした。

その時。

「相変わらずいい匂いだね」

 

自分の頭の上で、低い声がした。

状況が把握できず、とっさに身体をびくっと奮わせると、

配達員の男性が、私の髪に顔を近づけて匂いを嗅いでいた。

配達員はニチャアと笑った。

キャップとマスクの間から見えるその細く歪んだ目は、間違いなくCのものだった。

唇の間からギャア、と反射的に細く短い叫び声が漏れ、慌てて飛び退いた。

「やっぱりここがAちゃんの実家だったんだね苗字見てそうかなと思ってた」

この前と同じく、まばたきもせず私を見つめて一方的に、心から嬉しそうに彼はつぶやいた。

私の叫び声を聞きつけてか、母親が玄関に早足でやってきた。助かった、と思った。

「あ、どうも〜」

Cを見つけた瞬間、笑顔で会釈する母親。

「どうも。失礼します」

笑顔で会釈を返し、Cは何事もなかったようにドアを閉めて去っていった。

どうなっているんだ。

 

その後、母親から聞くと「あの配達員さんいつもすごく感じが良いのよ」と嬉しそうに言っていた。

母親には、モールで起きたことや今のことを話し、今後もしCが来ても、

私のことを聞かれても何も話さないように、できれば配送の担当を変えてもらうように、釘を刺しておいた。

 

 

 

 

Cの配達事件の数日後、どこにも自分の落ち着ける場所がないかのように感じた私は

東京の自分の一人暮らしのマンションに帰ることにした。

新幹線の車窓から東京のネオン街を眺めていると、

やっぱりこっちのほうがいいな、と心が軽くなっていくような感じがした。実家に向かう時はあんなに心が重かったのに。

 

 

ほどなくして転職活動をスタートし、数社面接を終えて、へとへとで家に帰ってきたある日。

マンションのエントランスにある郵便受けの鍵を開けて手を突っ込むと、いつもとは違う感触があった。

郵便受けにみっちりと、何かが詰まっている。

小さい郵便受けに無理やり突っ込んだように、白いビニール袋が入っている。

なんとかその袋を引っ張り出す。袋には宛先も、何も書いていない。嫌な予感がする。

おそるおそる、袋を開けてみると

そこにはところどころ黒く煤けて、色あせた布がたたまれて入っていた。

 

袋をひっくり返し、床にぶちまけた。

その瞬間、私の心臓はドクンと大きく音を立てた。

それは私の中学の時に身に付けていた制服のスカートと、スポーツブラジャーだった。

そして、ひらりと紙が一枚床に落ちた。そこには

 

「むかえにきたよ C」

と書かれていた。

 

 

 

私はすぐに遠い町に引っ越した。

実家にはまだ、帰れていない。